セグーから6日、やっとのことで昨日到着したヌアクショット。
バスクヌからヌアクショットまでは・・・特に書くことも無いので割愛させてもらいます。車に乗ってただけ。
ヌアクショットにはもう2度と来ることは無いと思っていたのに、何も無い場所からやってきたこの街はとても大きく天国のように思える。
とは言うものの、午前中にマラリアの予防薬の追加分と念の為にマラリアの治療薬を買うともうやることも無くなる。
宿は前回同様Wi-Fiフリー。
という訳で、今日は半日ネット漬け。
そこでたまたま見つけた★韓国は“なぜ”反日か?★というサイト。
タイトルの通り、そのサイトには韓国が反日の理由が長々と書かれているんだけど、その中にアジア諸国から日本はどう見られているかということが書かれてあった。
どうやら学校で教えられたように『戦争はいけないこと。日本は戦争で酷いことをした。』というのは間違っているらしい。
勿論戦争がいいこととは思わないけれども、当時西洋の植民地とされていたアジア諸国。有色人種だというだけで「支配される側」に生まれたことを意味した時代。
そんな時代に西洋諸国からハル・ノートをつきつけられ“事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし。”と開戦を決意して次々と西洋諸国を次々と倒していった日本。
なんともカッコイイではないか。
戦争には負けたものの、結果アジア諸国は独立に成功し、白人と有色人種は平等となった。
また、アジアの中には日本の植民地だった国もあるが、日本式の植民地は欧米式の略奪型植民地とは“同じ植民地という呼称であっても”中身が全く別のものであり、多くの国は日本の植民地時代に受けた恩恵に感謝していたこと。
欧米の支配下に置かれた国は「鉛筆を買わされること」はあっても「自分たちで鉛筆を作る方法を教えてもらうこと」はなかったという。
という言葉を聞くと、あぁなるほどなぁと感じる。
以前日本の植民地だった国の中にパラオという国がある。驚くことにパラオの一部の州ではアウンガル語、英語に並び、日本語が公用語として使われている。
そして、パラオ人の『8割』はその姓名のどちらかに『日本式の名前』を付けているといわれている。
もう、次の旅行地はパラオに決定だな。是非、実際に戦争を経験した世代の人達に当時の話を聞いてみたいもんである。
最後に、毎日新聞のコラムに載ったパラオの話
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ……」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。
日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という歴然たる戦力差。
しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。
最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。
その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。
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